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沖縄旅行~中編~

2日目。
はじめに・・・この日のスケジュールをお教えします。

 9:00 ホテルロビーに集合、出発
 9:15 豊見城 旧海軍司令部壕 見学
10:30 平和祈念公園 見学
11:00 ひめゆりの塔 平和資料館 見学
12:30 那覇に戻り 昼食
14:30 真栄田岬 ダイバーズハウス 休憩
15:20 万座毛
17:00 海洋博公園 美ら海水族館
19:00 那覇 国際通りで買い物
20:00 居酒屋にて夕飯・飲み会
22:30 解散


・・・ですよ。修学旅行か?って感じでしょ。
あのね、母ちゃんたち女性陣はこの日、泳がなくてもいいから
とにかく海に行って青い海を目の前で見て
足先だけでもいいから入って、海の透明度を感じたかったの。
でもね、運転&プランを立てた男性陣にはその気持ちは通じなかったらしく
岬で海を眺めるだけ・・・よ、同じ海を見るでも意味が違う(T▽T)トホホ

そんな感じでスタートした2日目。
まず上記のスケジュール表でもわかるように、午前中は沖縄戦と慰霊塔など
第二次世界大戦の悲惨な爪あとめぐりでした。
今回の記事はすべて沖縄戦の慰霊塔めぐりの話になります。
チョット長く、悲しいお話になってしまいますがお付き合いください・・・

第二次世界大戦中、唯一地上戦の地となった沖縄。
母ちゃんは学生時代、確かに戦争と平和を学んできましたが
主に学んだのは広島や長崎の原爆の事が多く
沖縄戦に関して日本で唯一の地上戦があった地ということだけで
ハッキリ言って、それ以外の沖縄戦に対しての知識はありませんでした。

最初に行った旧海軍壕の資料館には数々の写真や遺品が展示してあり
沖縄戦で被弾し、亡くなった兵士や村民などのリアルな写真も
数多く展示してあり、胸が締め付けられる思いでした・・・
※参照資料はこちら←クリック 
注:戦没者や負傷者などの生々しい写真があります、苦手な方はスルーしてください

壕の中は薄暗く、蟻の巣のような印象を受けました。
当時のまま保存されてる壕の中は、湿ったような重い空気
つるはしで掘り進めた痕跡もたくさん残っており
すでに崩壊してしまった通路もあるようで
母ちゃんが見てきた壕内は、ほんの一部だそうです・・・

壕内見取り図

壕内見取り図

壕内通路2 壕内通路

壕内通路の様子

司令官室

司令官室

手榴弾痕

自決時の手榴弾の痕・・・生々しい手榴弾の破片が壁に残ってました。

そして平和祈念公園

平和祈念公園

ここでは資料館には入館せず、公園内だけを見学しました。
写真手前に写ってるのが「平和の火」というもので
平成7年(1995年)6月23日、慰霊の日に、広島の「平和の灯火」
長崎の「誓いの火」から分けてもらった火を合わせ点したそうです。
そして写真後方にずらっと並んで写ってるのが「平和の礎」というもので
沖縄県民以外の、他県や他国の人であっても
沖縄戦の犠牲者として241000名の名前が刻まれてるそうです。

礎

そしてこの反対側にはキレイな青い海が広がっています。
ここは摩文仁の丘(または海岸)と言うそうです。

摩

しかし・・この海がまた戦争の悲しい話の舞台なんですよ。
ちょうど修学旅行の生徒さんが居て、ガイドさんが話をしてたので
盗み聞きしてましたヾ(;´▽`A``

日本軍は首里城周辺に築いた陣地で攻防戦を繰り広げようとしましたが
本土決戦の時間稼ぎのためにも、戦線を後退させてでも戦闘を続行すべきと判断し
首里城の陣地を放棄し、南部へ戦線の後退を決めたそうです。
13歳から19歳の男女学生(この後に書いてあるひめゆり部隊もその犠牲者)や
男成人住民は戦線へ向かわされ、戦った3分の2は軍人でなく沖縄の住民でした。
突然の軍の作戦変更に、南部に残された幼老婦女子の疎開や避難が遅れてしまい
そのため多くの犠牲者を出すこととなってしまったそうです・・・
この青い海も、当時は米軍の艦船が埋め尽くし、そこから戦闘機が飛び立って
逃げ惑う住民達を次々と撃ち殺して行ったそうです。
そして陸地では防空壕や林などに潜み隠れてる住民
片っ端から火炎放射器で焼き尽くし、海、空、陸、全ての攻撃から
この摩文仁の丘まで追い詰められた住人は、次々に海へ飛び降り
海岸下に広がる岩に打ち砕かれ、海は血で真っ赤に染まっていたそうです。
今でも遺体は全て回収されておらず、この岸の下に眠っているのだそう・・・

私の幼馴染のお母さんは、当時、戦線にいた米軍が撮影した
沖縄戦かサイパン戦かは定かではないのですが
崖から住民が飛び降りる映像を見たことがあるそうです・・・

そして今回最後に向かった慰霊塔がひめゆりの塔

ここで本日3つ目の慰霊塔ですからね・・・かなり母ちゃん凹んでましたよ。
特にここは同性である女の犠牲者が多い場所なので、辛さが倍増し
資料館を出たときににはドヨヨ~ンって気分でした。

ひめゆりの塔

塔というのだから、ものすごく高いのかな・・・・と思ったら
この写真手前の慰霊碑がひめゆりの塔なんですって。
後ろに建ってるの白い碑が納骨堂慰霊碑で、左下の穴が
ひめゆり学徒隊が看護要員として従軍した軍病院第三外科壕の跡だそうです。

「ひめゆりの塔」って映画とかにもなってますが
それでもやはり詳しい内容を知らなかった母ちゃん・・・

ここの資料館はカメラでの撮影禁止だったので写真はありません。
なので参照資料→こちらをクリック※ひめゆり資料館公式HPへ飛びます。

資料館で一番印象に残ってるのが、犠牲者が生前どんな子だったか
そして最期の様子や死亡場所などを記した、200人余の遺影が飾られてる
「鎮魂」と呼ばれる第四展示室。
そこにはひめゆりを含め女学徒隊の生存者からの証言が書かれた本もあり
その本には想像を絶するような内容が書かれてました。

負傷者の血や膿、排泄物などで悪臭の充満した壕の中での看護・・・
麻酔もせず、腐敗した手足を切り落とす・・・
快方せず足手まといになる軍人に毒を飲ませ殺す・・・など。

遺影を見ると、学徒隊のほとんどの最期が砲弾による即死となっていて
家族、親戚全員が亡くなり、遺影すらない学徒さんもいました。
中には「私は皇国女だ!殺せ」と米兵に詰め寄り、射殺されたり
追い詰められた海岸の岸壁にへばり付き、登ることも降りることもできず
波にのまれて溺死した学徒さんもいました・・・

「お母さんに会いたい」
「砲弾が降ってこない太陽の下を大腕を振って歩きたい」


今でも頭から離れない言葉です。

ひめゆりの塔のHPであったように、学徒隊の生存者の方が

「こんな恐ろしい戦争が二度と起こらないように
私たちは語り続けてきてるけど
もう語れる日は少ないの・・・
だから語り続けてください」


・・と言ってたそうです。
それを見て、母ちゃんも戦争は知らない世代だけど
目をそらさず伝えなければならないな・・・と感じました。

チョット暗い内容になってしまいましたねヾ(;´▽`A``
後編はガラッと変わって楽しくいきたいと思います!!

*後編と同時エントリーの為
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